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優填王像
優填王像
 
    竜門西山の敬善寺区に大量な優填王像が現れ、年代が殆ど唐高宗時代(650——683)に集中する。これらの塑像は合わせて100体あり、風格が統一し、方座に靠れ、二足の間に宽带一本垂れ、体とくっ付く右肩を脱ぐ袈裟をし、衣服が薄くて透明であり、滑らかで綺麗であり、「裸」に近い。その中に、単体のものもあり、両側に二弟子二菩薩及び二天王像が置かれるものもある。これらの塑像は形であれ、組合せであれ、すべて相似していて、同じ人により作られたようである。
    唐・玄奘『大唐西域記』などの仏教典籍の記載によれば、唐貞観19年(645)、玄奘がインドから長安に戻る時、経典、舎利のほか、七尊の仏像をも持ち帰った。中には「擬僑賞弥国出愛王思慕如来刻檀写真像刻檀仏像」一体あり、「通光座高尺有五寸」、優填王(Udayana、中国語訳出愛王)の塑像である。その内容は釈迦牟尼が成仏した後、升仞利天に行って母摩耶夫人に説法し、三ヶ月間帰らなかった。僑賞弥国の優填王は釈迦牟尼を思慕するので、没特伽罗尊者(即ち摩诃目健連、目連と略称)を誘い、「その神通力を借りて天宫に行き、釈迦牟尼の絶妙な姿を拝見する」。同時に釈迦牟尼の姿を牛頭白檀で彫刻し、即ち優填王造の如来像(後世はこの種類の像を優填王像と呼ぶ)である。玄奘がインドへ赴く時、ちょうど戒日王が在位(606——646)したころであり、後笈多時代に属する。ここから見れば、玄奘が帰国する時にこの仏像を持ち帰ったが、3、40年流行しただけで終止したということである。
 
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