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奉先寺
 
    奉先寺は竜門石窟の西山南端に位置し、元々は「大盧舎那像龕」と称され、規模が巨大で、気勢が漲り、塑像が精美で、技巧がすばらしい。奉先寺は竜門石窟の規模最大の仏龕であり、竜門唐代彫刻技術における最も代表性のある作品でもある。
    盧舎那は仏教の宗派である華厳宗の信仰する尊像であり、「毗盧遮那」とも称され、「光りが遍く照らす」という意味である。仏龕には一仏、二弟子、二菩薩、二天王、二力士など九体の塑像がある。主尊「大盧舎那」の座像は全長17.14m、頭の高さ4.00m、耳の長さ1.90mで、肩掛け式の袈裟を着、ふくよかな顔つき、広い額と四角い下顎、月のような眉をし、炯々とした両目で見下ろし、すずしげな微笑、垂れている両耳、簡潔な衣服模様をし、「見掛けが希有で、表情に匹敵するものがなく、大慈大悲で月と太陽のごとく」と言える。彫刻全体は人々に荘厳優美、静で優しい印象を与える。左側の迦葉は主体が欠けているが、依然としてつぶさに辛酸をなめた年取った僧侶の姿を呈している;右側の阿南は眉が濃く、目が細かく、若くて英知に富み、敬虔で誠実、自信一杯で、さながら聡明な弟子のようである。二菩薩は華麗な衣服、厳かで慎み深い表情をし、天王は厳かで威厳があり、力強い表情をし、力士は剛毅勇猛かつ荒っぽい性格を呈し、地鬼は恐れるものがなく、全力をかけて支える姿を現している。これら何れも内面と外面を同時に備え、真に迫っている。仏龕全体としては、違う性格、風格、表情、姿、造型と装飾の人物は主尊―盧舎那仏を中心とする群像に組み立てられ、左右が対称で、姿が其々違い、配置が厳密で、主要なものと副次的なものをはっきりと分け、勢いが雄大で、内的に繋がる有機的な統一体を形成している。その彫刻規模、芸術設計、人物の形作り、彫像の造型などは何れも唐代芸術家のずば抜けた技巧、審美気風、唐代における高い芸術レベルをありありと現している。
    奉先寺の群像における唐代皇室石窟の立派な気風は大唐帝国の巨大な物質力と精神力を具現し、東方仏教芸術と石窟技術の模範になり、恒久な芸術魅力と美学価値を持っている。
    主像の基の北側にある『河洛上都竜門山之陽 大盧舎那像龕紀』の記載では、 “(大盧舎那像龕)は大唐高宗天皇大帝により建てられたものである。……咸亨三年壬申の年4月1日に、皇後武氏が二万贯の化粧代を寄進した。……彫刻が美しく、見掛けが希有で、表情に匹敵するものがなく、大慈大悲で月と太陽のごとく……”。このことから、奉先寺は唐高宗(李治)により造営を始め、則天武后は咸亨三年(西暦672年)に二万贯の化粧代を寄進し、竣工を促した。勅を受けて点検作業を担当したのは西京実際寺の善導法師、法海寺の恵簡法師であり、大使は司農寺卿韦機、副使は「東面監」、「上柱国」(官職)は樊玄則で、職人が李君瓒、成仁威、姚师積などである。工事は上元二年(西暦675年)12月30日に完工された。“正教が東方に流入し、七百余年になり、大龕の功績はこれを最高とする。調露元年(西暦679年)八月十五日に、大像の南に大奉先寺を建てるという詔書を下る”。西暦679年に竜門西山南部で大奉先寺(今西山石窟南門外200mの所)を建て、大像龕の日常管理を担当した可能性もある。西暦680年に唐高宗はそれに横額を与えた。
    大像龕を造営する目的は何かというと、目下学術界では二種類の観点がある:一つは奉先寺は唐高宗が太宗のために幸せを祈るために建てられたものだと、もう一つは奉先寺(祖先を尊重し、偲ぶという意味を持つ)は高宗と則天武后が則天武后の母楊氏を記念するために西暦670年以後に建てられたものだという。奉先寺は非常に立派で雄大な工事であるが、皇帝工事として唐の強い国力で五年内に完成できる。そして、則天武后がわざわざ化粧代を寄付し、塑像を彫刻する目的が、仏教を信じる母楊氏を記念するためだという言い方は比較的に合理的である。仏教と無関係で、649年になくなった太宗を記念することはやや不可能である。
    『像龕紀』の中で触れた点検作業を担当した西京実際寺の善導法師は『仏祖統紀』の中に伝記があり、浄土宗大師である。もう一人の検校僧は法海寺の恵簡法師(竜門恵簡洞の功徳主でもある)である。大使司農寺卿韦機は『新唐書』、『旧唐書』の中に記載があり、韦弘機とも称され、高宗、則天武后により抜擢された役人であり、建築工事、工事設計などの面に才能があり、東都洛陽の天津橋と宿羽、高山、上陽などの宮殿と庭園の造営を担当したことがあり、いずれも非常に壮麗である。氏は唐高宗中後期における建築業界の大家であり、大像龕の建築も氏により担当される。この工事を完工する上元二年(西暦675年)に司農卿に昇進した。副使は「東面監」、「上柱国」(官職)は樊玄則で、華厳宗の弟子であり、華厳宗太師康法蔵の師の弟の輩である。
    大像龕の北壁の東側に『大唐内侍省高徳之碑』があり、内侍省(宦官の管理機構)の高力士、楊思勖など「160人は大唐開元神武皇帝を尊ぶために……西方無量寿仏一体を造営した……」。大像龕の九つの大仏の間に入り混じった48体の等身高阿弥陀立仏は石碑に記載される西方の無量寿仏である。これらの仏像は唐玄宗李隆基ころの愛臣高力士、楊思勖などにより彫刻され、これらの人は当時の政変に参加し、玄宗が皇位に上る時の大功臣である。
    そのほか、大像龕の北、西、南の三つの壁に沢山の木穴の跡があり、地面に順序よく排列された丸穴遺跡と対応する。これらの遺跡は唐代から宋、遼時期までにおける軒の遺跡である可能性が高い。
 
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